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杭州にいたアノ人は今!!平松 聡


平松 聡 (Hiramatsu Satoshi)
勤務地:愛知県
趣味:料理全般、ものづくり
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「出会った人達が私にとっての中国」
 
私が杭州で生活していたのは、2006年7月~2014年3月の約7年半でした。年齢では25歳~33歳という、アラサー期間のほとんどを杭州で過ごしました。
 
1. 私が中国に行ったキッカケ
 
中国に行くに当たっては明確な動機があったわけでなくて、小さなキッカケがポツポツあり、気付いたら中国に来ちゃっていた、本当にそんな感じでした。キッカケの1つが当時流行り始めたSKYPEです。2000年頃から使っており、当時は夜な夜な海外の人とチャットすることが日々の楽しみだったので、その内の一人に特に仲良くなった中国人が居ました。その人とチャットを繰り返すうちに、次第に中国に興味を持ち始め、いつの間にか「中国で働くのも面白いかも」思ったことがキッカケの1つです。(ちなみにその相手とは、中国へ行って1年後くらいに直接会うことができました。)
もう1つキッカケは、当時の生活に得体の知れない焦燥感と閉塞感を強く感じていたことです。普通の社会人生活を送っており、仕事が嫌いだった訳でもなかったのですが、漠然と「この先ずっとこんなかな、嫌だな、退屈だな」と感じ悶々とした日を過ごしている中、なんとなく転職サイトを見ていたときに同職種の中国勤務の求人情報が目に付きました。
普段は特に気にも留めなかったのですが、前記でのSKYPEのやり取りがふと頭をよぎり、「海外勤務って経歴があれば今後何か変わるかな」、「好き好んで中国勤務を希望する人も少なそうだし、希望すれば案外簡単に行けるんじゃね?」、「生活も中国は物価安くて、コミュニケーションも漢字でどうにかなるでしょ」そんな都合良い発想が湧いてきて、あれこれと都合良くトントン拍子に事が運び、気付いたら中国の地に立っていました。
ちなみにその求人内容では「中国語問わず」とあり、それを真に受け一切中国を学習しないまま中国に行ったのですが、それはあくまで社内の最低限の業務に限ったことで、社外では言葉のフォローは一切無し、突如訪れた中国サバイバル生活に中国に行ってから自分の考えの無さを呪いました。
 
 
2.いざ中国へ
 
2006年7月、その日は非常に暑い日でした。本当に洒落にならないくらい熱い日で、湿度が低くて空気はカラカラ、日差しで肌が痛いと感じたのを今でもハッキリと覚えています。下沙開発区内の会社前に車から降り、開発区の無駄に広くて真っ直ぐな道路の脇に佇み、あまりの暑さでこれから中国だっていうワクワクした気持ちは一気に萎えました。
入社初日は社内の説明と簡単な顔合わせだけで、それが終われば会社が用意した市内のホテルに移動…のはずでした。マンションを探すまでの2週間くらいは、会社がホテルを手配すると言っていたのですが、実際に用意されていた住まいは会社から徒歩30秒、食堂の上にある寮、周りはワーカーさん。まあ、通勤の立地だけは最高でしたが、室内は非常に残念なところでした。救いは一人部屋だったことと、電気が通っていることくらいでした。
当時は本気で騙されたと思っていましたが、入社早々ことを荒立てたくもなかった為、何も気にしていない素振りを通しましたが、毎日引っ越しのことしか頭にありませんでした。
(後にその仕打ちについて上司に尋ねたら、中国語が全くできない日本人を一人市内に残すのが心配だったらしいです。本当かどうか知らんけど。)
そんな私が働くこととなった会社は、某中国のローカルグループ企業でした。とはいえ、私が入社した時点ではグループ内に3人の先輩日本人が居ました。
(その内の1人が現杭州Navi編集長のダニエル氏ですが、同じ建物内に居ながら彼の存在を(日本人と)知ったのは3カ月後でした。)
ボロ宿舎で腹を空かせて途方に暮れている時、初日の夜から一人で晩飯させるのは気まずかったのか、先輩日本人のUさんが食事に連れて行ってくれました。13年も前なのに意外と覚えているものですね、場所は下沙に当時あった日本料理屋の紫櫻花でした。
初日の晩飯が日式居酒屋かよ!中華食わせろよ!と少し思ったのは内緒です。(U先輩はそれから1年後帰国し、それ以来一度も会うことは無かったのですが、この記事で思い出したこと機に会いに行ってみようと思います。)
杭州最初の週末、市内で日本人会があるから行ってみる?と日本人上司に誘われ下沙のボロ宿舎より市内へ、そこで杭州駐在日本人大勢とのファーストコンタクト。何の会だったか忘れましたが、店は建国北路に当時オープンしたばかりのabucafe(アブカフェ)と覚えています。キレイな店内で、オシャレなプレート料理を味わいながら「チクショウ、市内に住んでる連中は毎日こんな洒落た店で飯食ってんのか!」と謎の嫉妬心を抱いた事を思い出しました。(プレート料理と言えば私も毎日お昼に社食で食べてたんですけどね、蒸しごはんは苦手だったな…)
そんな田舎者の嫉妬心は別にして、この日に初めて「Naviの初代編集長N澤氏」と知り合いました。彼が私の杭州生活においての最重要人物ですが、書くと本1冊分にもなっちゃうので割愛、とにかく本当に色々とお世話になりました、ありがとうございました。この日は名前を知った程度でしたが、会社の営業用パンフレットに名刺をホチキスでつけて配り歩く鬱陶しい営業活動していた事を、今でも覚えていてくれてるみたいです。
 
■書きたかったこと色々ありましたが、文字数の関係で割愛
・今はもう無い、当時よく行った日本料理屋。(龍峰、日本橋亭、簫山のアントニオ等に関して)中国に来て、体重が5kg減ってから、そこから30kg増えた話。社員旅行がまさかの寝台列車、しかも年2回。杭州写真同好会が出来た当初、モデル撮影会とかやった話。
日系コンビニ襲来、狂喜乱舞の話。など、思い出せばキリがないですね。
 
■出会った人達が私にとっての中国
杭州は第二の故郷、と帰国後しばらくは思っていたのですが、いま改めて考えると何か違う、しっくりしない。1年に1回は杭州に帰りますが、帰るたびに街は様変わりし毎回新鮮であるものの、懐かしいという感覚は徐々に減ってきました。また、日本人の知り合いも杭州にはほとんど居なくなり、杭州へ行っても会う相手もあまり居なくなりました。
私にとって杭州の8年間の思い出は街にはあまりなく、そこで出会った人々との出来事にあったなと、この記事を書くにあたり改めて感じました。そして、当時のことを共有できる人たちと、今では疎遠になりつつあったことに気付きました。これからはもう少しマメに、面白おかしく当時の仲間と共有する機会を増やしていければと思います。
※というわけで、さっそく声をかけて飲み会を開催しました。(します?)




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