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私の中国語生活


氏名:宮本 大輔
ローマ字表記:Miyamoto Daisuke
勤務地:長野大学(長野県上田市)
出身大学:神奈川大学
趣味:中国語、読書、テニス、料理等
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「私の中国語生活」
 

 杭州から帰国して18年――私は上田で中国語の教員をしている。
 そもそも私が中国と出会ったのは、今から30年前。私が小学4年生の頃、書店でたまたま手に取った三国演義がきっかけだった。その壮大なストーリーに私はいっぺんに心を奪われ、あっという間に自他共に認める三国志オタクとなった。その後、中学、高校と進学していく中で、興味は三国演義のほか、『大地の子』や『ワイルド・スワン』といった、中国の近現代を描いた作品にまで広がった。そして、いつしか日中の架け橋となることを志すようになり、その夢を叶えるべく、中国語や中国の社会や文化について学ぶことができ、中国への派遣留学制度がある神奈川大学へと進学した。大学生活は本当に天国のようだった。自分が勉強したくてたまらなかった中国語をいくらでも勉強して良いのだから。素晴らしい先生方と友人のおかげで、私の中国語力は見る間に上達し、留学前には旧HSK5級を取得していた。
 そして、私は当初の目論見通り、派遣留学制度を使って、杭州の西側にキャンパスを構える、浙江大学に留学した。誤算?だったのは最初のプレイスメントテストで6班(当時の高級班)振り分けられたことである。在籍するのは日本や韓国、北朝鮮といったアジア諸国から来た留学生で、中には中国語を武器として働いたことのある社会人もいた。テキスト、同学のレベルの高さに驚愕した私は、その日から特訓を始めた。起床後は寮の前にある珍珠奶茶のお店で肉まん片手に店員とお喋り、授業後は机にかじりつき、それに疲れると、また珍珠奶茶のお店で、奶茶を飲みながら、店員とお喋りをしたり、分からない箇所を尋ねたりした。こうした苦労の甲斐もあってか、私の中国語は飛躍的に向上し、授業にもついて行けるようになった。
 杭州での留学中、私は様々な中国語を聞く機会に恵まれた。ネイティブの話す中国語(標準語、訛りの濃い標準語、方言)、留学生が話すそれぞれの出身国の言語的特徴を残した中国語だ。こうした経験を重ねるうち、いつしか中国語を話せるようになることに加え、中国語の社会的な側面に興味が湧き、帰国後はより深く学ぶことのできる大学院に進学することを決意した。私が大学教員という夢を志したのはこの頃からである。
 大学院進学後は、中国語運用能力の向上というよりは、むしろ中国語を研究していくためのスキルを身につけることに時間を費やした。そして、ようやく修士論文を書き上げた。テーマは中国における危機言語と普通話政策で、中国には少数民族語が数多く存在しており、話者数の多い言語は保護・優遇されているのだが、話者数の少ない言語の中には保護・優遇される旨が明文化されておらず、言語転用により消滅の危機に瀕しているといった内容だった。これで大体A4用紙40枚程度である。
 大学教員になるため博士課程に進学した私は、研究の軌道を若干修正したものの、日本学術振興会特別研究員(21COE)にも採用され、順調に研究を進め、博士論文を書き上げた。テーマは中国人大学生の言語評価意識および言語使用意識というもので、北京、天津、上海、杭州の4都市で質問紙調査を実施し、被験者が標準語及び方言にどのような評価意識を抱いているか、そして標準語と方言を場面によってどのように使い分けているかを論じたものである。これで資料を含めると、A4用紙300枚程度である。
 また、博士後期課程在学中にある出会いがあった。それは入学試験の時だった。私は出身大学から博士前期課程、博士後期課程と進学したため、勝手を知る強みから、緊張感がなく、同日に博士前期課程の入学試験を受ける後輩とお喋りに夢中になっていた。ふと、気づくと受験生控室の向かいに座っている女性が怖い顔でこちらを見ていた。外部からの受験でナーバスになっていたのに、私たちがお喋りをしていたので迷惑をかけてしまったらしい。慌てて口をつぐんだ。さて、勘の良い読者の方々はもうお気づきかと思うが、この女性こそ現在の私の妻なのである。
 こうしてめでたく3年間で博士後期課程を修了したのだが、すぐに大学教員になれる訳ではない。博士号の取得はここから始まる長い下積み時代の幕開けだった。1990年代以降に始まった大学院重点化により、世の中には博士が溢れており、専任教員となる競争は熾烈を極めた。東京で専任教員の職を得ようとすると、約100倍の競争を勝ち抜かなければならない。結局、私は博士修了後3年間、出身大学及び数校で非常勤講師とパソコンインストラクターを掛け持ちして食いつないだ。1年目の年収は200万円くらいだったのではないだろうか。まさに高学歴ワーキングプアである。それでも外国語が専門だったのは不幸中の幸いだった。なぜなら、大半の大学には外国語科目があり、中国語はその中でも多くの学生が履修する科目であり、各大学が一定数の中国語教員を必要としているからだ。
 4年目に差し掛かろうとするとき、転機が訪れた。8年の任期付きではあるが常勤講師の職を得ることができたのである。ただし、問題が一つあった。職場が福岡なのである。妻はこの時すでに東京近郊の大学で専任教員の職を得ていたため、この話を受けると、単身赴任せざるを得ない。妻や指導教官と相談し、今後のキャリアアップのために受けることにした。こうして、福岡で単身赴任生活を送りながら、授業と研究に明け暮れ、福岡にわたって4年目にして、現在の職場である長野大学で専任教員の職を得ることに成功した。また、プライベートでは2016年に娘を授かった。可愛くて仕方がない。最近は中国語の発話も始めている。
 現職を得るまでに出した応募書類はおよそ100通。大学教員になるのがどれだけ難しいことかお分かりいただけるのではないだろうか。私が優秀だからだ!と誇る気は毛頭ない。何度も挫けそうになりながらも、夢を諦めることなく、歩み続けたからこそ自身の力でもぎ取ることができたのだ。現状に満足することなく、常に上を目指すこと、そして諦めず前を向くこと、こうした力を育んでくれたのは、杭州留学時代の勉強の日々なのかもしれない。
 2018年、私は長野大学で准教授に昇格した。今の目標は、自身の研究を進め一家言をなすこと、そして少しでも多くの学生に中国や中国語の魅力を伝え、日中の架け橋となる人材を育成することだ。



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